P突堤3

「でにをは」別口入力・三属性の変換による日本語入力 - ペンタクラスタキーボードのコンセプト解説

物語だけが、事物を認識する手段ではない

相変わらず日本スゴイ系の動画がYoutubeに流れてくるんだけれども、
「最初は軽自動車を馬鹿にしていた某国で隠れた人気に」
「最初はウナギをバカにしていたダディが逆にそのうまさにぞっこん大絶賛」
「ひどい!日本の小学校では生徒に掃除をやらせるのか!と言っていたのにアラブ圏で日本式教育が普及中」
みたいなリードの動画とかが流れてきて、なんかお決まりのパターンだな・・・と思っていたのが
なぜか最初は日本を否定するところから入る
っていうのが共通パターンみたいなんですね。
まあ動画だから再生数稼ぎにそういうキャッチフレーズをつけるのもわからなくもないんだが、
日本ってそんなに発想違いのことしているかな?
日本はかつて「東洋vs西洋」ていう問題に江戸末期以降ずーっと問い続けてきていたりしたけれど
諸外国は日本文化についてつい最近知ったことしかないのか?そういう問いをしたことが今までなかったのか?
ちょっと物足りなさを感じます。
あと危ういと思うのは、最近の焦点の軸が
「西洋vs東洋」ていう視点から
「日本vs世界」
っていう限定した視点に変わってきているのが気になる所ですね。
西洋東洋って議論していたころはあくまで国と国じゃなくて東西という"枠"になぞって対照していたので純粋にシステムについて論じることができていたけれども、
日本対世界になっちゃうといろいろナショナリズムとかマウントとか好奇の目とか、余計な要素が前面に出てきてしまっていて
昔みたいに見通しのきく普遍的な知見を得ることが難しくなってきている、という傾向を感じてしまいます。

まああくまでただの動画の狭い界隈の話ですし、私自身も世界情勢に大した広い視野を持っているのではないですけれど
日常思いめぐらしているペンタクラスタキーボードのあれこれといろいろケミストリーを混ぜっ返してみて
無責任ながらも論を進めていきたいと思います。


欧米系の人はロジック認知のバッファがキャパ不足なのかは知らないが、日本文化の理解プロセスに関して
サッと目鼻が抜けるような一発で理解をするというのが非常に少なく、
何かしらにつけて最初は否定から入り、じょじょに疑問の姿勢から高次の合理性があることに気づかされて
我々とは別の系列の知性体系があってニンシキを改めさせられた、一転して日本称賛に傾き、それだけならいいけれど過度に日本を神聖視しすぎて
日本人でもこんなタイピカルな模範行動できないよというような倫理のハードルを無理に上げさせられるような困った副作用をしばしば持ち込む
・・・いろいろややこしい。
理解の仕方が「グラスプ理解」ではなくて「シークエンス理解」のスタイルの人に大幅に偏っているな、という気がする。
要するに相手の内なる弁証法の物語に一緒にお付き合いしていかなければならず、対話者の資格を得るのにまず伴走者になることを強いられる。
つまり我々日本人からしたら「コミュニケーションコスト」が非常にかかる面倒な相手という事になる。

逆に言えば中国人相手の方が文脈共有から言ってもロジックの狙いについても以心伝心、即席応答しやすいのではないだろうか?
彼らは日本文化理解の素養が深く、いちいち非合理的だとか、クレージーだとか言って狼狽えたりしない。
面子の価値観があって現状変更の試みには激しく拒絶するところも見られるが、ペンタクラスタキーボードは過去の遺物ではなくて
出来立てほやほやのホットなトピックなのであるから面子の物差しに憚られることも割と少ないだろうというのが私の持論だ。

ペンタクラスタキーボードのPエコシステムのもつ「広告の廃絶」という一大テーマもまた、欧米の人には理解できない単元であろう。
彼らは経済合理性には長けているから、広告で経済を回すメリットであるとかスケールの評価であるとか競争力であるとか
ありとあらゆる面から私の考えを矯正して、説得にかかることだろう。死ぬまで固執し続けていて決してこちら側に立つという事をしない。
けれどもう私の考えは決まっていて、広告の廃絶に賛同しないような陣営とはハナから交渉しないと決めているので
どれだけ説得しようと時間の無駄である。
中国人は交渉相手として実にしたたかで、私が広告を廃絶するといったらもちろんそれを前提としてこんなプランはどうですか?とか
日本語入力のエンジン部分も作らせてくださいとか前のめりにいろいろ言ってくるだろうなというのは想像できる。
私はプラットフォーム自主権の確立についても口酸っぱく言っているし、各国が各国それぞれのカタチの入力システム、コミュニケーションデバイス
を独自に作り上げていけば良いということを常々言っているが、これも欧米のグローバル戦略、規格標準化の圧とすこぶる相性が悪い。
私は互換性などなくていいからドメスティックな自治権こそを最優先させるべきだと力説していきたいが
この立場も中国の立ち位置や現状のデジタル小作人的趨勢から言っても長期戦略の強度に耐えうる新たな軸の旗印としてもってこいな形だ。
見立てていうのならテック帝国主義対テックポリス都市群構想主義の対決である、と言えるであろう。

逆説的であるが欧米圏の人たちは、テック帝国主義ではなくて、ポリス構想のほうにベットして、投資してほしい。
そうすればいやでも帝国側の陣営もカウンター投資をし始めてくるだろうからそこで安易に靡かずにポリス陣営のほうに倍プッシュして
火だるまの鉄火場を演出して、そうして結果的に独自キーボードデバイスというものの市場がやみくもに過熱していきさえすればめっけものだ。
まず話題にされなかったキーボードというものが――1年365日触れていながらその価値を無視され続けていた日陰者にようやく光が当たる。
入力といういとなみは最後の未踏領域だ。

ここでまた文化の話に戻るが、
外国勢の方々は軸足を自陣営に置いて、対岸の日本の要素をうかがい知る、または極端な神聖視、いいところだけ吸収
…などのように元アイデンティティを毀損しない形態で日本文化を受容しているようですが
日本側の人の受容の仕方は両方とも等価で単純に思考フレームの種類が2倍に増えたという選択性を実際にもっているのが大きな特徴であると思います。
実際に取り入れて、選ぶことが可能である、言うは簡単ですが諸外国にとっては日本式をそのまま取り入れるというのには少なからず抵抗がある、と言ったところでしょうか。(過去記事からの引用)

・・・これは一神教の宗教の違いなんですかね。自軸を絶対に崩さない頑なさはあると思いますし、それゆえの「シークエンス理解」プロセス、なんでしょうね。
ロジックの違いをリズム運用で緩和する、用法。
ただ「一神教」っていう言葉を独善的批判文脈で安易に使い過ぎている昨今の空気もありますので少しエクスキューズしてみますと
日本もあまり一般の人にはピンと来ないかもしれませんけれど一神教に似た「天皇制」を持っておりますし、
何よりも選挙制度が選挙区に1名しか当選者を出さない「小選挙区制」をしいていますからね、これも日本人の意思決定構造にトップ1を偏重する深層意識を助長する影響力をもつと思いますよ。

日本のプレゼンスの神髄は
「欧米のカウンターカルチャーであること」
地政学的に文明の中心ではなく華夷秩序の辺縁の国として存立してきた歴史」
にあると思います。
両者に共通するのは「Pre」の文化ではなくて「Post」の文化であるという事。
にもかかわらず欧米圏の「シークエンス理解」の執拗さがここまで顕在しているという傾向も
中国が地政学的枷はめから解放されて、ネットの時代になり、自らが辺縁の国として振る舞おうとする道を模索してき始めている傾向
などなどちょっとフェノメノンと言えるような、奇妙な符合がシンクロするようになってきました。
この符合の意味するところは
「日本を『辺縁の国』の立場である所から追い落として、中心の国、源泉の国であるように、Preの国であるように仕向けていく」
「世界の多数派はむしろ『辺縁の国』になりたがっている」
といことなのです。(検証ガバガバですが)

でも日本にオリジナルを旗振りできるような、そんな器はありません。
常に人の目や国際協調を気にしているキョロ夫に確固たるポリシーを持てるような国民の成熟度も度量もありません。
中心の国、源泉の国であるという事は規範に縛られ、合理性に占拠され、謙虚を強要され、覚束ない統治を背負わされ文句を言われ続け、責任だけ二倍になります。
日本にはポルノがあります。
身の丈以上にいい子ぶっている余裕はありません。そんな間に無邪気に野蛮を行使することができる連中はルールをハックして従来の価値観を上書きしてきています。
日本は野蛮を行使することも許されず、かといってリーダーシップをとって利害調整したとしても誰も言うことを聞かず、実効力がまるでなく、おだてられてカタチだけの名ばかり管理者にされるだけで何のうまみもありません。
結果、野蛮と規範の板挟みとなり茹でガエルのように気づいたら緩慢な死を迎える結末が待っています。

ちょっと前の記事(コンテンツは、恨みを買わない商材だ)で日本は今こそリーダーシップをとるべきである・・・などと息巻いておりましたが、やはりこれは少々荷が重いかと思います。
ペンタクラスタキーボードの日本国内での成功にだけ力を注ぎ、グローバルな懸案は各国の自主的な取り組みに任せてプラットフォーム自主権はやる気のある国だけががんばってね、というスタンスでいいと思います。
独自のプラットフォームを築く、とはいいますが日本語はかな漢字変換の運用、表記やルビの問題からして言語そのものからしガラガラポンに活路を見出すに値するような特殊性を持つ言語でありますが
他の国々の方にとっては今更新プラットフォームだ、入力システムの刷新だ、なんていってもあまりピンとこないのではないだろうかと思います。
あるとすれば情報安全保障、商圏施政権の遵守、アテンションエコノミーやポルノのないエコシステム、ユーザープロファイルを徹底して信頼性のあるネット言論空間を作る・・・などなど言語外のアーキテクチャー環境に動機を見出すといったところでしょうか、これには法整備であるとか議論の進展を待たなくてはならないという長い道のりが待っています。
日本でさえペンタクラスタキーボードの議論なんて皆無ですし、入力デバイスの社会的意義づけや接触チャネルの窓口性の重要性、インフラ構築のロードマップなどなど私が個人で発信しているだけで何の裏付けもありません。

純粋に言語的事情にスポットをあてて新キーボードを作っていこう、っていう展望はないのでしょうか?
私が各言語のローカル事情に疎いだけで、記法や言語固有の文字群の理想的なキー数、キーボードの形状からしてのキー入力基数などなど、ひょっとしたら言語に根差した変革機運などもあるのかもしれませんが。
やはりそこは餅は餅屋、その国の有志の方々に希望を託して、理想の入力方式を構想していってもらえればいいと思います。

だらだらと駄文を書き連ねましたが私がもっとも言いたかったのは「シークエンス理解」と「グラスプ理解」の部分でコミュニケーションコストがかかるやんけ!という部分で
その他の文は筆が走ってしまって根拠のない戯言を繰り出してしまったという顛末なのですが、
アメリカの小論文の形式は
主張提示、根拠・理由を3つ、結論、で構成する
5パラグラフ式エッセイなんかはまず結論を言え、っていうんじゃなかったっけ?
でも文化の違いにすぐに結論を出せなさそうな局面においては結局説明コストが高くなるんだな。
物語で記述しようとせずに、パラメータで記述するほうが未確認事案については有効なアプローチなのではないかな?
物語は人の"初心"を奪ってしまうからね。
物語っていうアプローチ自体に限界があるみたいだ。
粛々とデータを連ねていく
パラメータっていう語り口の重要性が見直されていく傾向になるといいな。

いろいろと迷走してしまいましたが今回のお話はここまで。
ご通読、ありがとうございました。