おはぴよー🐔
最近、"学びー"というワードでリアルタイム検索をするといい感じのツイートに出会える確率が上がることを発見したぴとてつです。
先々月の末、4月27日は「哲学の日」でした。
紀元前399年にギリシャの哲学者・ソクラテスが「神を信じず若者を堕落させた」罪で死刑宣告を受けて
弟子たちは脱獄を勧めたが、「悪法も法なり」と言って聞き入れず毒を飲み亡くなった逸話を基に制定されました。
この日に合わせてひさびさのリアルタイムアプリネタを、哲学をテーマにしてみようと練っていたのですが、あまりに難解なテーマ、
自分のキャパをはるかに超えてしまい、それに追い打ちをかけるようにGooブログのサービス終了のお知らせ・・・。
ゴタゴタに紛れながらも書籍・動画の読み込みやAIチャットでの質問等さんざん苦心してようやく記事のアウトラインにたどり着きました。
かなり遅くなってしまいましたが、この期間でまとめた知見をちょっとふざけたパッケージにして皆様にお届けしてみたいと思います。
ちょっと力作ですので、ここでPC閲覧の方はちょいちょいっと検索をアレして、
推奨BGM:Ben Folds Five の 『フィロソフィー』
を流しながらお読みくださることをおすすめします。

さて、はてなブログでの目次と見出しの作り方の要領がよくわからないので、旧式のGooブログ式の愚直なテキスト書きで
しょぼめの目次を置いておこうと思います。
今回扱う話題はこちらです。
・相対主義への懐疑
・「現代思想入門」や「哲学と宗教全史」を読んだ
・リアルタイムアプリの調査項目はこちら
・各哲学者の簡単な説明
・企業内哲学者
・思考停止にならないで
・「史上最強の哲学入門」飲茶さん
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▶相対主義への懐疑
令和のご時世、論破ブームやネット言論の炎上が止まりません。実に嘆かわしい時代です。
やれアテンションエコノミーだとか言って、情報の質よりも注目度が高い方が経済的価値があるという実情がはっきりしてきました。
情報の洪水だとか高度情報社会化とかのもたらす当然の帰結なのかもしれませんが、今一度歴史に学び、
「今の状況と酷似している」かつてのギリシャの知識人、ソフィスト達のもたらした哲学の誕生と腐敗について学んでいきたいと思います。
相対主義の台頭とソフィスト
・ソフィストの登場
プロタゴラスに代表されるソフィストたちは、「人間は万物の尺度である」と主張し、真理や価値は人それぞれで相対的だと説いた。
・ソフィストの問題点
彼らは弁論術や処世術を金銭で教え、哲学的探究よりも技巧や詭弁を重視した。その結果、真理の追求が軽視される風潮が生まれた。
・・・そこでソクラテスが編み出した方法が、「素朴な質問攻め」です。
自明のことを愚直に質問し、「でも○○の場合はどうですか?」「先ほどの話では○○とおっしゃってましたよね」「それで本当に知っていることになるのでしょうか?」
こんな調子で相手に能動的な内省を促すことにより、対話という方法で相手と自分双方から気づきを得るのです。
「みんな違ってみんないい」「価値観は人それぞれ」とはいいますがそれは思考の放棄です。
世界は有限であるし、自己対世界という平板な認識世界に我々は生きているわけではないし、人の寿命は限りがあるし、身体というくびきから解放されることはない。誰もが共有する制約が存在するのです。
そういった、限定された条件の中でかけがえのないものを追求していく事が知恵をもつ者のまなざしの在り方だと思います。
単なる多様性の肯定ではなく、対話と省察を通して、より良い価値や真理を探究する姿勢が重要であるのです。
――これからは
相対主義者を「よりそい主義者」
絶対主義者を「かけがえ主義者」
と呼び変えることにしましょう。

▶「現代思想入門」や「哲学と宗教全史」を読んだ
「哲学と宗教全史」はまだ全部を読みこなしたわけではありませんが、全史的な概観網羅の厚みがあるにもかかわらずカタログ的な紹介に終始せず、
著者の出口治明(でぐちはるあき)氏の俯瞰的な知性から繰り出される筆致というか構成、たとえば
ヘーゲルの長男「キルケゴール」
ヘーゲルの次男「マルクス」
ヘーゲルの三男「ニーチェ」
という見立てもとてもユニークですし、
ギリシャでの"知の爆発"からの、「ソクラテスは、ソフィストだったのか、否か?」という掘り下げ、
アリストテレスはきれいに世界を整理しすぎたのかもしれない、1000年以上も、ヨーロッパの学問はアリストテレスの呪縛から離れられなかった、という強烈なパンチライン。
東洋哲学や諸子百家にも造詣が深く「孔子とプラトンの類似点は多いが(ともに理想主義的な観念論)」の比較もしつつ子孫を残したのは孔子だった、
という世俗観だけで終わらせず、孔子は漢以降の中国において儒教が重んじられ子孫の一族は現在まで続くとのフォロー、
あとは異論もあるかとは思いますが独特の歴史観、ヘレニズム時代の位置づけを
「ヘレニズム文化とはギリシャを原点とする進んだヨーロッパの文明が遅れた東方に浸透して生まれた文化であるという見解には、全く賛成できない」
「いわば後の十字軍がそうであったように、豊かな文明を持つ東方へのヨーロッパからの進出であったのです」
というグローバリズムの萌芽として看破している事。
などヘレニズム文化にはキリスト教とのかかわりや特にイスラム世界ではギリシャ哲学や科学が温存され発展しておりその奥に広がるわれわれにはあまり理解の及ばないイスラーム教の宗教、歴史、ルネサンス勃興への契機などここらへんあたりの私の知識はほぼ皆無でしたので非常にためになりました。
リアルタイムアプリでのイスラム思想家はまだ知識が浅かったので調査項目には入れませんでしたが
ローマ成分が欲しかったのでキケロをリサーチ対象にしました。
ギリシア・ヘレニズム文化のローマにおける受容と深化を体現し、文筆も多く残したという別ソースの逸話を知ったので、
キケロ自体は「哲学と宗教全史」に含まれてはいないもののヘレニズム文化に興味がわいたのでその隣接事項として間接的な動機で導入したわけです。
「現代思想入門」もとりあえず読みました。
それより前に宿題があって私はこのリアルタイムアプリの記事を執筆中に「弁証法と脱構築」ってどこが違うの?っていう疑問にぶつかりました。
いろいろ過程を端折ると、
まとめ
・ヘーゲルの弁証法は、矛盾や対立を乗り越えてより高い統一や発展を目指す「統合・解決型」の思考法です。
(パンを食べるべきかソーセージを食べるべきか、よっしゃ、ホットドッグを食べればいい、うん前向きな解決方法だね)
・脱構築は、そもそもの「対立構造」や「前提」を問い直し、固定的な結論や統一を拒む「批判・解体型」の思考法です。
(パンの前にお米はどうした?命題が二項対立的図式を取りさえすればその時点で間違った命題とすることが可能なんじゃないか?評価者の問題が生じるぞ、利害関係を洗え!)
ともに評価する主体に関連した権力の問題が生じるので、両者は「対立をどう扱うか」という点で根本的に異なります。弁証法は発展や進歩を志向し、脱構築はそのような志向自体を疑い続けるのです。
うん、二元論は恐ろしいね。もっと音楽理論みたいに七元論とかピボット・コードとかみたいに円環の流れに身を任せて白黒あまりつけすぎないほうがいいね。
というわけでリアルタイムアプリの調査対象はヘーゲルだけにしたのですけれど、脱構築という難題は奇しくも「現代思想入門」を紐解きながら咀嚼していこうという流れになりました。
著者の千葉雅也氏は日本でのフランス現代思想や批評で知られる今や言論界で引っ張りだこの超売れっ子文化人です。語彙力がなくてこんな紹介しかできなくてごめんなさい。
デリダとは概念の脱構築、ドゥルーズは存在の脱構築、フーコーは社会の脱構築という整理の仕方が非常にユニークで、大きくフランス現代思想を捉えるには、「差異」というのが最も重要なキーワードです、とも言っています。
特に、デリダの脱構築では「同一性」よりも「差異」に力点が置かれてきたが、千葉はそこからさらに一歩進め、「同一性」と「差異」のあいだをリズミカルに行き来する「仮固定的同一性」という概念を提唱しています。
この「仮固定的同一性」は、固定的な本質やオリジナルに固執せず、むしろ派生や変化、ズレ(差異)を肯定的にとらえる態度を意味します。
・・・このトピックは僕の中で大いにケミストリーを生み出し、最近でお気に入りのアニメ「九龍ジェネリックロマンス」の中で
「本物と偽物」の境界を問い直す葛藤が物語の核心的テーマとして多層的に描かれます。特に「偽物であること」を肯定的に再定義する描写が顕著です。(鯨井令子の存在意義をめぐる葛藤)
というパースペクティブを得られたこと、この作品に惹かれたきっかけなどは千葉雅也氏の影響によるところが多分にあります。
後は概観的な留意点としてここでは穿った見方かも知れませんが、
この書籍に通底する軸の一つに、新自由主義に端を発する二項対立に縛られていく構造(経済合理性のみで判断する、エビデンス至上主義による言葉の価値の低下)はやがて自らを縛り付ける「秩序化・画一化の強化」という方向へと進んでいくであろう。だから二項対立のコントラストがより深刻になる社会像になる。
そこで"現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する、それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。"
というくだりが導入部分で投げかけられており、コンプラ隆盛、クリーン社会、デジタルタトゥ―、同調圧力からどうやって自由になっていくのかという問題意識が展開していく仕立てとなっております。
有名な「盗んだバイクで走りだす」という歌詞、あれはかつてがんじがらめの社会秩序の「外」に出ていくという開放的なイメージで捉えられていましたが、今はどうだ、「他人に迷惑をかけるなんてありえない」という捉え方がけっこう本気で言われているようです・・・のくだりのところには一瞬ハッとさせられました。
秩序をつくる思想はそれはそれで必要です。しかし他方で、秩序から逃れる思想も必要だというダブルシステムで考えてもらいたいのです。
という丁寧な思考はこの世界を生きる上でも指針になっていくと思いますし、忘れられない金言でもあると思います。
▶リアルタイムアプリの調査項目はこちら
選出した10人の哲学者・思想家は以下の通りです。

▶各哲学者の簡単な説明
その前に集計結果をどーんと発表します。

【こんな時代だから選ぶ!哲学の巨人たち10選】
調査期間:2025年2月24日-3月4日(19日間)
プラトン 830
ヒューム 312
バタイユ 192
西田幾多郎 67
キケロ 80
メルロ=ポンティ 57
レヴィ=ストロース 56
荀子 76
ヘーゲル 664
サルトル 298
そして、以下に各哲学者の簡単な説明を添えておきます。
プラトン▶ソクラテスの弟子。アテナイ郊外に学園(アカデメイア)を創設。プラトンの国家観はエリート主義に立脚している。
現代は民主主義がもっとも「まし」な政治体制だと評価されているがそれは近代以前の封建主義的な支配階級や特権階級を排除したいという政治的課題が広く共有されているためである。
しかし成熟してくるとポピュリズムが台頭してくることになり、民主制の堕落形態として衆愚制や僭主制に行きつくことを彼は予言していた。
貴族制や寡頭制は民衆によって打倒されるが民主制の堕落形態である衆愚制は外部を持たないので自力で修正することは難しい。愚者は愚者自らを賢くはできないから。
一方、プラトンの時代では、「共同体の維持」や「市民の制御」が主要な政治的課題であり、歴史的条件が根本的に異なっていた。
そのため、「知識」(イデア)を有する者が国を統治するほうが優れているという文脈で、僭主制が民主制よりも優るとみなされた(プラトンはこの考えを背景に「哲人王」という理念を提唱した)。
正確には「僭主制が民主制より優れている」とはプラトン自身は主張していませんが、このへんはきわどい議論になるところです。
ヒューム▶因果関係は人間の「思い込み」であり、経験に由来すると考え、デカルト批判から生まれた哲学体系であるイギリス経験論を完成させた。
「人間の中に浮かぶ知識や観念は、すべて経験から来たものにすぎない」ヒュームは優れた自然主義者であり、しかも、徹底した懐疑主義者である。
バタイユ▶経済合理性の範疇に収まらない蕩尽・祝祭・宗教・エロス・芸術は、人間の喜びの本質が有用性の原理に拠って立つ生産・蓄積過程にあるのではなく、消費・蕩尽にあることを示している。
バタイユにとって「蕩尽」と「祝祭」は、「過剰」によって生じるエネルギーや富を、意図的・集中的に消費し尽くす営みである。これは単なる浪費ではなく、人間の生の本質や共同体の再生、社会のダイナミズムを支える根本的な原理とされている。
西田幾多郎▶純粋経験とは、主観と客観が分化する以前の意識の統一状態のこと。断崖絶壁を懸命によじ登る登山家のごとくである。
同じく日本から世界へ禅の道を広めた鈴木大拙と強い友情を育み、自覚や同一性、存在の論理などに関する思索を深めた。
キケロ▶共和制ローマ末期・最高と謳われる弁論家。帝政の端緒となったカエサルとは親友かつ政敵で名状しがたいスリリングな関係。
カエサルの後継者に指名された若者オクタウィアヌスは元老院派のキケロと接近し賢明にも独裁者として振る舞うことは避けてはいたが
見事に孫ムーブに嵌ったキケロは支援先のオクタウィアヌスがアントニウスと密約した結果、粛正リストに載せられてしまう悲しい末路をたどる。
ギリシア・ヘレニズム文化のローマにおける受容と深化を体現し、文筆も多く残した。
メルロ=ポンティ▶意識にはコントロールできることと無意識に勝手に動くといった両義性がある(自転車・ピアノ・ダンス)。
身体は精神に従う単なる客体ではなく、主体的な側面も併せ持っている、すなわち単に世界の構成要素ならざらぬ身体だけがもつ特異性がある。
そして、精神が優位であった西洋哲学の考え方を見直し、身体が主役となって世界を理解していこうという新たな考え方を主張した(身体論)。
レヴィ=ストロース▶レヴィ=ストロースは、未開社会の人々の思考を「野生の思考」と名付け、その特徴を「ブリコラージュ」(ありあわせの道具や材料で物を作ること)という概念で説明した。理論や設計図に基づいて物を作る「設計」とは対照的なものであり、偶発性から生じる創造力でもある。
また、一見バラバラに見える未開社会の習慣や制度にも共通の構造が存在することを発見し、人類に普遍的な思考の枠組みを明らかにした。
荀子▶政治の根本は「礼」である。そこで問おう。「人の『性』が悪ならば、礼義はどこから生じるのか?」、これに答えて「およそ礼義というものは、聖人の『偽(い)』から生じるものであり、人間の『性』から生じるものではないのだ」と。「礼」とは作為であり治乱は天にあらず――。人間の主体的努力を信じて、天の権威を真っ向から否定した人である。
荀子は孟子の「性善説」に対して「性悪説」を提唱し、秩序ある社会の実現には教育と規律が必要だと主張した。
ヘーゲル▶ヘーゲル哲学の中心となる考え方が「弁証法」です。物事や歴史が正(テーゼ)と反(アンチテーゼ)という対立を経て、その対立を乗り越えた合(ジンテーゼ)へと発展していくという思考方法です。対立や矛盾を「止揚」し、より高次の段階へ進むことにより、二元論を克服していく道を示します。
ヘーゲルの哲学では、客観的世界、すなわち社会や歴史も、絶対精神の自己実現の過程とされ、 歴史の目的とは精神が自由を自覚することなのだと言います。
またヘーゲルは、「闘争こそが真理に到達する方法である。」(対立や闘争は、真理の発見を促す重要な要素)だとも言っています。
サルトル▶「実存は本質に先立つ」。モノの例としてペーパーナイフとはどういうものかを、あらかじめ職人は知っている…目的や性能が決められてから作られるだろう(本質先行)。しかし人間はまず何者でもない…自分自身の自由な意思を以って自身の実存を決める事ができる(実存先行)。
つまり実存=今ここにある存在、ということが本質より先行しているということだ。
それには不安も伴うが、「自由という名の牢獄」に沈黙せず、アンガージュマン(社会参加・拘束)という思想をもって積極的に《状況》へと自らを《投企》していくべきだと訴える。
※これらの10の候補は単に趣味で選んだわけではなく、近年の問題意識や出版動向などを加味して選出されました。参考になりましたらどうぞ↓↓↓
▶ここ数年、ヘーゲルの主著『精神現象学』や『法の哲学』の新訳や入門書が続々と刊行されています。
2023年5月、NHK「100分de名著」で『精神現象学』が取り上げられ、「分断の時代にこそヘーゲルの思考法が必要だ」という現代的意義に焦点が当てられました。
難解とされたヘーゲルが、一般読者にも届く形で再解釈され、今後もこの流れは続くと見られます。
▶AI技術が進化し、知能や認識が「情報処理=頭脳」だけで語られがちな現代において、メルロ=ポンティの「身体性」論は重要な問題提起をしています。
身体の運動や行為は、常に環境との相互作用の中で成立する。
人間の主体性や知能は、身体を通じて環境に「内在する」ことで初めて意味を持つ。
AI研究、ヒューマン・コンピュータ・インタラクション(HCI)、ロボティクスなどの分野で、「身体性」を持つAIやロボットの設計思想としてメルロ=ポンティが参照されています。
▶企業内哲学者
「企業内哲学者」という言葉を聞いたことはありますか?
GoogleやAppleなどの大手IT企業では、専属の哲学者をフルタイムで雇用する動きが広がっています。Googleではデイモン・ホロヴィッツ氏、Appleでは政治哲学者のJ.コーエン氏、日本では東芝のデザイン部門の社内教育に哲学的思考を導入した三上龍之氏などが著名な例で、彼らは技術者や経営層に対し、多様な視点や倫理的思考、社会的責任などの観点をもたらしています。
ふむふむ、なかなか意欲的な取り組みだなと思いますが、へそ曲がりな私は「企業内哲学者」や「CPO(Chief Philosophy Officer)」の導入が、単なる"インテリファッション"やパフォーマンスに終わるのではないか――という懸念がぬぐえません。
哲学者という立場が資本の論理に飲み込まれてしまうことは容易に予測できますし、企業は株主の手前、短期的利益を追い求めます。
これで本当に格差の是正や、労働者の尊厳の回復が果たして望めるのでしょうか?
マルクス・ガブリエルによれば、脱成長は人々のインセンティブを削ぎ、社会を停滞させ、貧困をもたらす。さらにコミュニズムは、中央集権的な計画経済によって、市場のみならず、最終的には民主主義を否定する。複雑な現代の社会システムにおいて、画一的な平等を押し付けようとする計画経済は不可能であり、自由を否定することになるというのである。と、あります。
これは、普遍的価値観こそ唯一無二の回答であり、個別的文脈依存的な些末な種々の物語にはいちいち立ち入っている暇はない。
と言っているに等しいと聞こえてしまうのです。
楽観主義もほどほどにしてください。分断された社会に今更「普遍性に訴える」などとは誰も共感できない。こんな社会に誰がした。
私はこんな人に企業内哲学者の文化を先導する旗振り役を任せておくのは心配です。
今までの強欲資本主義者が、雇用・労働環境を蹂躙して、外国人移民を推進し、人を「いつでも替えの利く部品」にしてしまった。
奴隷がいることを前提としたシステムに、サステナビリティなどあろうはずもない。
反省がなさすぎるのではないか。悪びれもせず「新しい価値観を」などといっても手放しで受け入れることはできない。
高邁な理想論を唱えるより前に
・ボトルネックをまず最優先に対応せよ
・ネストは交差しない。直近の問題から解決していくのが筋だ(直近問題解決優先の理論)
これを判断軸にして基底からボトムアップできるようにしないと意味がないと思います。
資本主義には欠陥がある。
・投機の経済は実体経済の8~12倍もあると言われている。労働の尊厳は失われるし、有り余るマネーは国家の保安システムを脅かす。
・社会で成功して散々富を蓄えた後でなら、慈善事業に帳尻合わせをすることもできるが、立身出世のそのさなかで社会倫理を還元する者はいない。金稼ぎはいわゆる特殊な技能の一つで、全人格的な長期的展望を担保するものではなく、むしろ阻害する。
――この疑問に社会はどう応えるのでしょうか?
今後も、思想界経済界における企業内哲学者の議論の進展と推移を、注意深く見守っていきたいと思います。
▶思考停止にならないで
この記事の冒頭の文章で、なんて高潔たるソクラテス師匠!己の信ずるところを貫き毒杯をあおるなんて!ソフィストいい加減にしろ!って調子で小気味良く書いていたのですけれど、
ようやく原稿の仕上げにいこうかとまとめに取り掛かっていたら、気になる文章に出会いました。概要は以下です↓↓↓
ソクラテスは敵国スパルタびいきで、弟子たちの中にアルキビアデスを筆頭として親スパルタの恐怖政治を実行した三十人政権(傀儡政権)をまんまと成立させてしまって国家(アテネ)は没落し売国一直線の空気を作り上げた。特にアルキビアデスはスパルタ様に国の弱点教えまくりの国賊。
ソクラテスこそ責任の元凶ではないか。青年を堕落させたと言われても無理もない。
ソクラテスも逮捕され、裁判にかけられましたが、弟子がスパルタに情報を流した責任を取れとはいえなかったので、表向きには「国家の神々を認めず、青年を堕落させた」という罪状でしたが、実際には彼の思想や弟子たちの行動(とくに三十人政権関係者)への反発が大きな要因であったと考えられます。ソクラテスはそれが理由のない言いがかりであるのを知っていましたが、政権のホンネが何であるか知っていましたので抵抗することなく毒を仰いで死んだのです。
これが真実なのではないですか?
アテネは民主制でスパルタは全体主義であるという点、この認識の甘さ、
言論はピュシス(自然)を優先するものとして、ノモス(規則・規範)を蔑ろにしたソフィストたちの放埓がここまでの事態を招いたという事です。
全体的に総括してみてください。
これに対してAIの回答は、
ご指摘の通り、ペロポネソス戦争後のアテネではスパルタの影響下で「三十人政権(いわゆる三十人僭主)」が成立し、恐怖政治と粛清が行われました。
しかし結論として、ソクラテスがアテネ没落や売国的空気の「元凶」と断定するのは過度ですが、彼の思想や教育活動が時代の混乱や社会的動揺の一因となったことは否定できません。
裁判と死刑は、そうした複雑な時代背景と市民の不安・不信の表れだったと言えるでしょう。
→やんわりと(ソクラテス自身が直接この政権の成立や売国的行為を主導したという明確な証拠はありません。)と否定している。
・・・このくだりを目にして、信心の浅い私はすぐにソクラテス師匠に対する敬慕が揺らいでしまいました。
あれだけ相対主義は「みんな違ってみんないい」の限界だ、とか言って批判していたのにその私自身がこの"相対的視点"を知ってしまったことにより、コロっと見解を変えてしまったのです。
この指摘に対して、私は確固たる根拠を持つことができません。
文字数も10000文字を超えてしまいましたし、残念ながらここでは回答を出すことをあきらめ、魚の小骨のように喉に引っかかったこの懸案を、フリーズドライの食品のようにいつでも戻せるように常駐させていこうかと思います。
うーむ、なかなか哲学の道は険しいね。
こうやって「問い続けること」「対話の中から答えを見出していく事」「無知の知を自覚していくという事」が、
哲学していくという事なのだな。きっと。
と半ば誤魔化しの様にお茶を濁してしまいましたが、最後の項でちょっと口直しにライトなトピックを採り上げてこの長編記事を締めていこうかと思います。

▶「史上最強の哲学入門」飲茶さん
ここまでお付き合いくださいましてありがとうございます。
いろいろ小難しい読み解きではありましたが、哲学書って難しそう、敷居が高そう、っていう方におすすめの1冊を紹介させてください。
『史上最強の哲学入門』は、哲学の難解さや堅苦しさを感じさせず、楽しく読み進められる点が大きな魅力です。
哲学書にありがちな抽象的な議論や専門用語に頼らず、ユーモアや身近な例を交えながら、哲学者たちの思考の本質を明快に解説しています。
特にAudible版が最高のデキで、本書は「グラップラー バキ」成分が多量に含まれており、選手登場~!になぞらえて冒頭部分に
「哲学者入場~!」の力強いアナウンスが名調子でナレーションしていきます。ここだけでも珠玉の聞きどころ!
ながら作業や通勤途中に聴いていたとしても、思わず手や足が止まってしまう事間違いなし!ホントに騙されたと思って一度聞いてみてください。
哲学というのは格闘技だったんだな・・・というのがよくわかると思います。
この本でも私的に学びがあって、快楽主義者(エピキュリアン)で知られる
紀元前341年~紀元前270年の古代ギリシャの哲学者、エピクロス派(エピキュリアン)の始祖として知られているエピクロスのことについて、
快楽主義の誤解と本質
「快楽主義」と聞くと、美食や贅沢を追い求めるイメージがありますが、エピクロスの快楽主義はむしろ逆です。彼が重視したのは「肉体的苦痛がなく、精神的に不安がない静かな状態」、すなわち「アタラクシア(心の平静)」です。とあって
エピクロスについても、快楽主義の本質や「心の平静」を重視した思想がわかりやすく解説されており、現代にも通じる哲学的ヒントが満載です。
おお、そうだったのか。φ(.. ) メモメモ
・・・そんなかゆいところにも手が届く、飲茶さんのちょっと奇想天外な哲学書を読んで、
みなさんの日々の生活に、もっと"フィロソフィー"をとり入れてみませんか?
その先に、今よりも少しだけ進歩的な人生が待っているかもしれませんよ。
と、いうわけで今回はだいぶ力が入りましたが、どうぞみなさんもこの記事に大いに触発されて
「企業内哲学者?」、あるいは「フィロサーの姫」や「フィロサーの彦」を目指して頑張っていってください。
ご精読、ありがとうございました。